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おもしろかった本やマンガを紹介しています。

「ただいま」「おかえり」 安心していえる場所。『Sunny』。

 

第一回目になる今回は、松本大洋の『Sunny』を紹介したい。

ちょうど先日、2017年「第20回文化庁メディア芸術祭」で
優秀賞に選ばれたことと、なによりも、大切な宝物になった作品だからだ。

Sunny(1) (IKKI COMIX) [ 松本大洋 ]

 

『Sunny』は、松本大洋が、子ども時代の体験をもとに描いたと言われる。
舞台は「星の子学園」。
そこは、家庭の事情から預けられた子どもが暮らす施設。
親と暮らす日を夢見みる子ども。

彼らの園での生活が、オムニバスで語られる。

誰もが、「その感情」を知っているのに、言葉では表せないことがある。
『Sunny』にちりばめられた「その感情」と出会うとき、
切なさと同時に愛おしさがこみあげてくる。
おそらく、それは『Sunny』の子どもたちを通して、
幼き日の自分を抱擁しているからかもしれない。

「星の子学園」の問題児、春男をはじめ、
めぐむ、きい子、じゅん、けんじ、せい、、、と
彼らのエピソードが折り重なっていく。

研ぎすまされた、松本の繊細な感性と技術、
そして抜群のセンスにより、子どもはもちろん、
周りにいる大人たちの心情が、絶妙に表現される。

背景がとても丁寧に描きこまれ、ひとコマひとコマが、
完成したひとつの絵のようだ。
緻密ながら、その描写には一切のムダがない。
登場人物の心の動きや空気感が、静かに胸に刻まれてゆく。

「安全地帯」があればいい。親じゃなくても。

「星の子学園」での、にぎやかな生活。
その中で,親と暮らせないことへの悲しみや寂しさ、施設暮らしの引け目、
親と会えないことへの不安が、子どもたちの、
小さな胸を大きく占めているということが描かれている。

重くなりがちなテーマなのに、

暗く湿った空気は、この作品からは感じられない。
なぜだろう。
子どもなりの逞しさと、そばで見守る大人がちゃんといるから、
絶望とか、悲劇的な匂いがないのかもしれない。

特に子ども時代に、すぐそばに、
見守ってくれる、耳をかたむけてくれる、
そんな大人と出会っていたら、
それは、とても幸せなことなのだ。

それは、先生かもしれない。
近所のお兄さんかもしれない。
年の近い叔父かもしれない。
友達のお母さんかもしれない。
それが親だったら、最高だけど、そうじゃなくてもいい。

だからこそ、「星の子学園」の園長先生や、まきおさん、
足立さんなどがいるだけで、この子らは大丈夫だ、と
どこかでほっとし、希望を感じることができる。

春男「あだちて なんで星の子で 働いてんの?」
足立「んーー。そらお前 決まっとるがな。」
「こうして 春男と出会うためや」

いじらしいにもほどがある。絶対的な「親」の存在。

一方で、『Sunny』を通して、もうひとつの実態が見えてくる
親というのは、子どもにとって、それはもう絶対的な存在だということ。
驚かされるのは、こんな親なら一緒に住まないほうがいい、
と思うような親であっても、一緒に暮らせることを
夢見る子どもがいることだ。

例えば、母親に買ってもらったニベアを片時も手放さず、
嗅ぎ続ける春男。

しかし、春男の母親は、母親である前に、自分はひとりの人間なので、
「お母さん」じゃなく、名前で呼んで、と春男に言う。
春男との関係性以前に、この母親自身が、自分をどう扱っていいの
わからないように見える。

ニベアを嗅ぎながら母を想う春男は、ようやく母親と会えても
幸せそうではない。

春男が慕うまきおさんとの会話に、その心情がうかがい知れる。

春男「あんなーまきおさん、、、」
「オレ、ほんま言うとお母さんに会いたないねん。」
まきおさん「えー。」
春男「ちゃうで。 会いたいねんで、、、会いたいんやけどなあ、、、」
「会うてまうと もう別れるときのことを考えて 胸んトコいっぱいになんねん。」

それを聞くこっちが、胸んトコいっぱいになんねん、、、。

 

『Sunny』を初めて読んだときに、春男のファンになってしまった。

そんな春男は、松本大洋自身がモデルなのだろうか。
そう、想像しながら読むのも、また楽しい。

サングラスをかけた春男が、サニーに乗っている場面のTシャツを
持っているが、かなり色あせてしまった。
着るたびに、勝手に『Sunny』の布教活動、広告塔をやっている。
いや、しかし、かっこういいTシャツなのですよ。

 

Sunny(1) (IKKI COMIX) [ 松本大洋 ]