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おもしろかった本やマンガを紹介しています。

シンプルなクローゼットで「おしゃれ」になる。『服を買うなら、捨てなさい』

キャリア30年を超えるスタイリストが行き着いた、

本当に!おしゃれな人の服の買い方、ワードロープとは。

 

これまでも、スタイリストによる

ファッションセンスの磨き方、

服の選び方、組み合わせ方などのハウツー本は

数多く世に出てきた。

正直、スタイリストが書いた本は、

参考程度に、っと立ち読みで済ますことが多かった。

どこかで自分のセンスに、自信を持つようになっていたからだ。

 

今でももちろん、服を買って後悔することはある。

でも、シンプルな色と形の服の組み合わせという、

自分の基本スタイルがあるので、

買うときの迷いも、買って後悔することも

以前より、ずいぶん減ってきた。

 

ここ数年は、白とグレーというモノトーンの組み合わせ。

トップスかボトムスが白、もしくは全身白のカジュアルなスタイル。

季節ごとに、2、3足の靴を、その日の天候と気分で履き替えるだけ。

ほぼ毎日ワンパターンの組み合わせだ。

だから、ほぼ迷わないし、一瞬で決まる。

 

ところが、いくら好きな服でも、毎日同じ服を着ていると、

気分は上がるのだけれど、でもどこか、

人の目を気にして、ソワソワ落ち着かない。

 

この本を読んで、「落ち着かない」理由がはっきりした。

私も「バリエーションの呪い」にかけられていのだ!

 

「バリエーションの呪い」と聞いて、ピンときますか?

毎日違う格好をしなければ、という脅迫観念。

たぶん、多くの人にありますよね、コレ。

ファッション誌の着まわし術や1週間コーディネートなどの

特集がパッと思い浮かぶように、今でも

いかにいろんな服を持っているように見せるか?

そんなテーマがファッション誌に多い気がする。

いつからそういう観念が、世の中に蔓延するように

なったのだろうか。

これは研究テーマとしても、おもしろそう。

 

地曳さんの言葉には説得力がある。

長年、ファッションにエネルギーを注ぎ、

ファッション業界で活躍してきたからこその

体験と学び、そして本音。

本書を読むと、毎日同じ服でもいいんだ~!という、

すっごく当たり前のことを、なんで

後ろめたく思ったり、恥ずかしいと感じたのか、

気がつくことができた。

 

下に書き出したのは、特に印象に残った言葉。

・日本に住む女性は「バリエーションの呪い」にかけられている。

・バリエーションを増やすと、イマイチの服も着てしまう危険がある。

・買い足すよりも、自分の定番を買い替える。

・おしゃれなモノを持っている=おしゃれ、ではない。

・捨てるべき服は、一度着て、鏡の前で脱ぎ捨てた服。

・おしゃれを格上げする靴に、まずこだわる。

・今週2回以上着たい服をメインアイテムにする。

・おしゃれな人はワンパターンになる。

・ワードロープを厳選すると、価値あるモノしか買わなくなる。

・自分をステキに見せる、気持ちが上がる服を買う。

 

この本には、細かい買い方のアドバイスなども

書かれているので、おおいに参考にできる。

ここで、ふっと思い出したことがある。

 

私の高校時代は私服だった。

ある時期、ほぼ毎日、同じ服を着ていた。

ブルーのデニムと、父の着ていなかったイッセイミヤケ

白いノーカラーワイシャツだ。

毎朝、シャツにアイロンをかけるのが日課だった。

 

今、あの当時のファッションを思い出すとき、

オーバーサイズの真っ白なシャツを着た自分って、

クールかもね、とちょっと感慨深い。

 

まあ、お金もなかったから、あれこれ買えなかったし、

制服のように、その組み合わせで通していた。

でも、その頃から、中途半端なモノを買って着るよりは、

本当に気に入ったモノを毎日でも着ていたほうが、

おしゃれ、という意識はあった。

と同時に、心のなかでは、たくさん服を持っている同級生を

うらやましくも感じていた。

 

いまだからこそ、高校生の自分に、

ありったけの賞賛を送ってやりたい。

そして、こうアドバイスしてあげたい。

 

好きな服なら、毎日同じでもいい。

そして、服を買うなら、

毎日着たいくらいの服を買えばいいよ、って。

数学者による日本論。情緒的であることの強さ。『国家の品格』

数学者、藤原正彦による日本論、国家論。

 

以前から、彼のエッセイは好んで読んできた。

その藤原先生による日本論である本書は、

以前にさらっと読んでいたのだが、

今回、改めて読み直すことにした。

 

本の冒頭で、藤原先生はこのように言っている。

「数年間はアメリカかぶれだったのですが、次第に論理だけでは物事は片付かない、

論理的に正しいということはさほどのことでもない、と考えるようになりました。

数学者のはしくれである私が、論理の力を疑うようになったのです。

そして「情緒」とか「形」というものの意義を考えるようになりました。」

 

 

誰しも経験的に、「ハートに訴える」ことが、効力を発揮する場面に

日常的に出くわしていると思う。

 

よくある親子の会話。

 

うまくいかない例:

母親「はさみ使ったら、ちゃんともとに戻さないと、次に使う人が困るでしょ!」

子「・・・(うるせー)」

 

わりとスムーズにいく例:

母親「ねえ、ここにあるはさみ、いつもの場所に置いてあると、すぐ見つかって

楽だな~」

子「わかった!」

 

物事を理屈や理詰め、あるいは正論で語られるよりも、

感情に働きかけると、スムーズに動くということよくある。

 

それを国家レベルで論じたのが、本書、と言ってしまえば乱暴だろうか。

論理性と情緒という視点から、この本はユニークな日本論、国家論になっている。

いつもの藤原流のユーモアをまじえながら、あるべき日本の姿が示される。

 

藤原先生によれば、

戦後の高度経済成長と反比例するかのように、

日本は、「国家の品格」を失っていった、という。

論理や近代的合理性を身につけたヨーロッパに産業革命がおこり、

現代に続く欧米支配の体制になったが、

その欧米を含む欧米化した先進国はみな、

環境、教育、家庭環境が崩壊してしまった。

それはなぜか。

西欧的な論理、近代的合理精神の行き詰まりによるものだ、

と先生はいう。

 

 「私の考えでは、これは西欧的な論理、近代的合理精神の破綻に他なりません。

 この二つはまさに、欧米の世界支配を確立した産業革命、およびその後の科学技術文明を支えた礎です。現代文明の原動力として、論理・合理の勝利はあまりにもスペクタキュラー(劇的)でした。そこで世界は、論理・合理に頼っていれば心配ない、とそれを過信してしまったのです。

 論理とか合理というものが、非常に重要なのは言うまでもありません。しかし、人間というのはそれだけではやっていけない、ということが明らかになってきたのが現在ではないでしょうか。近代を彩ってきたさまざまなイデオロギーも、ほとんどが論理や近代的合理精神の産物です。こういうものの破綻が見えてきた。これが現在の荒廃である、と私には思えるのです。」(P20)

 

 

論理だけでは世界は破綻する。4つの理由がこれだ。

 

1.人間の論理や理性の限界。

2.最も重要なことは論理では説明できない。

3.論理の出発点は、常に仮説である。出発点は、情緒や宗教や慣習で決まる。

4.長い論理は危ういが、短い論理は深みに達しない。

(P35~)

 

 

ここら辺までは、「論理」一辺倒へのダメ出しになっているが、

藤原先生の主張で抑えておきたいのは、

論理ダメ、情緒オッケーという単純化ではない。

論理は重要だけど、それだけではダメなんだ。

美しい情緒があってはじめて、論理の出発点を正しく選び取れる、

ということなのだ。

 

食料自給率や戦争など、さまざまなレベルの問題を例に出しながら、

ものごとを適切に判断するのに欠かせないのは、感受性とか精神性なのだ、という。

 

美しい情緒はこうした人間の傲慢を抑制し、謙虚さを教えてくれる。

「人間は偉大なる自然のほんの一部に過ぎない」ということを分からせてくれる。

環境問題のことなどを考えると、こうした謙虚さはこれからどんどん重要になってきます。

(P152)

 

 

また、国の底力の指標として、この3つの条件を挙げている。

 

1、美しい自然があること。

 (国民の知的水準が高いことや数学が強いこと、また天才の現れる素地となる

  美しい自然環境があること)

2、信仰心があること。=「何かに跪く心」があること。

3、精神性を尊ぶ風土があること。

(P161~)

 

 

それらの条件を満たす日本は、本来身につけてきた品格を取り戻せ、

ということなのだが、この本のタイトルにも入っている「品格」の指標は、

独立不羈(ふき)、高い道徳、美しい田園、天才の輩出、なのだそう。

 

人間の集合体である「国家」の品格は、つまるところは、

集まる人間の品性、知性の現れにすぎない。

品性や知性って、要するに、態度ですよね。

知性があれば、無暗に河川をコンクリート固めにしたり、

必要のない新幹線をつくるために、環境を破壊したりすることはしない。

インスタ映えする写真とるために、野生生物に餌付けをしたりしない。

 

まあ、品格を疑うような嘆かわしきことはたくさんあるけれど、

わが身振り返りで、ツッコむ以上は気をつけよう。

 

何気なく、あるいは意識的に、私たちは、常に

判断(選択)しながら生きている。

何を信じているか、何を大切にしているかで、

価値観が変わってくるし、選び方も判断も変わる。

 

善悪で判断すると争いになりやすいけれど、

「美しいかどうか」を基準にすることで、

より品格ある、平和な楽しい世界になるのではないだろうか。

やっぱり、美しきものは、心を動かしますし、

そういう意味で、情緒だよね、とこの本に納得するわけなのです。



北欧的ライフスタイルの根底にあるもの。『HYGGE 北欧が教えてくれた、「ヒュッゲ」な暮らしの秘密』 (小さなことからはじめる、心地よい時間のつくりかた)

「ヒュッゲ」。
3日ほど前(2017年の11月ころの話)、
昼休みに書店を覗いたら、見慣れた棚の
一列を陣取って、5冊ほど、
「ヒュッゲ」関連の本が並んでいた。
どれもタイトルに「ヒュッゲ」という言葉が
入っている。この本は、その一冊。

ほほう。
「ヒュッゲ」って、注目されているキーワード
なんですね。

「ヒュッゲ」とは、デンマークノルウェーの「居心地のよい雰囲気」という
ニュアンスを伝える言葉。
「仲間との絆」や「思いやり」も意味します。(P6)

暖かい、ぬくぬくした部屋で、誰にも邪魔されず、
かたわらには、あっついミルクティーかコーヒーを置いて、
時間を気にせず読みたい、そんな本だ。
ま、基本、読書のお時間ってそうですけど。

ひとことでこの本の印象を言うならば、
北欧流のスローライフ、シンプルな生活の紹介、だろうか。
きれいな写真も多く、それこそ、ヒュッゲに満ちた本。

アウトドアを楽しむこと。
自然や家族を大切にすること。
料理し、味わい楽しむこと。
フィーカ(お茶の時間)を持つこと。
シンプルに暮らすこと。
心地よさを大切にすること。

そのどれも、この時代に改めて、
その価値が見直されていることばかり。

例えば、自然のなかで過ごすことについて。
「フリルフスリフ」という言葉も、この本で知ったが、
「ヒュッゲ」の重要な要素らしい。

「自然のなかで、ありのままに生きること」(P13)を
意味する「フリルフスリフ」。

「~北欧の人々にとって、
現代生活の喧騒から離れ、自然のなかで考えごとをしたり、
全体を見渡す感覚をやしなうことが大切なのです。」(P14)

私自身、週末は決まって、近くの山にハイキングに出かける。
だから、自然のなかで過ごすことが、
どれほどエネルギーのチャージになるか、
気持ちのリセットになるかは、しみじみと体感していることだ。

そして、この本で、はっとしたことのひとつは、
「北欧における体の価値」について。

ノルウェーで過ごしていた著者のシグナ・ヨハンセンは、
イギリスに暮らしてはじめて
身体に対する、北欧的な価値観に気がついたという。

長く厳しい冬の環境下では、
たくましい身体が求められているのが北欧。
だから、おのずと自然のなかでのアウトドアなどが盛んになる。
確かに、クロスカントリーなどの強豪国という
北欧のイメージがある。

けれども、日本を含めて、いわゆる先進国などでは、
見た目重視で、身体を鍛えたり、ダイエットに励んだりする。

「ボディイメージとメンタルヘルスに関する数々の研究が、
自分の体がどう見えるのかを気にするのは
自己否定と不安におちいるだけだといっています。」(P40)

 

「スリムな理想の体型なんて、完全にアンチヒュッゲな
発想です。」(P41)

もちろん、理想の体型に憧れを持ったり、目指すのはいいけれど、
それを最終目標にせず、自分の身体ができることに
まず注目し、自分に合う身体の動かし方を見つけよう、楽しもう、
と提案している。

ものすごく、共感する。

コンクリートの建物のなかで、身体を動かすジムは
私には向かない。
自然のなかで、身体を動かすほうが向いているし、
何より、楽しいしね!

確かに、スリムになりたいし、あと10キロ体重も落としたい。
でも、辛さとか修行的な反復は、あまり好きじゃない。
季節を身体全体で感じ、楽しみながら、身体を動かしたい。
それが私らしさ。

そんな風に、ひとつひとつ、生活のあれこれについて、
心の声にちゃんと耳を傾け、選びとっていくとき、
自然と「ヒュッゲ」な生活になっているはず。

そして、この本では、料理についても多くのページが
割かれている。
料理もまた、いかに生きるかに直結するから、
当然といえば、まあ当然かもしれない。
「ヒュッゲ」な北欧料理のレシピつき。
見るからに、どれもコレ、絶対おいしいでしょ!
と確信できるレシピが写真で紹介されている。

フィーカのおともに、
サワーチェリーのバントケーキ。
そして、スモークサーモンとアボガドのオープンサンド、
甘エビのカナッペ 北欧風、グラブラックスなどは
特にそそられる。

家族や友人、あるいは、自分のためだけでもいい、
丁寧に、旬の素材を、シンプルに料理する。
例えば、キャンドルを灯したテーブルで、
心地いい音楽を流し、ゆっくりおしゃべりしながら頂く。

この本に書かれている根底にある生き方は、
スローライフや、ミニマリズム、シンプルな生活スタイルと
同じだ。それが北欧的な視点から、ヒュッゲをキーワードに語られる点に
この本の特徴がある。

しかし、そもそも、「北欧」ってひとくくくりにして、
多様な文化をいっしょくたにする危険も孕んではいると思う。

でも、今、ヒュッゲなライフスタイルが注目されてきているのは、
「北欧」という地域が、すでにある程度の「文化的信頼」を
勝ち取っているからかもしれない。

北欧っといったとき、多くの人の頭に浮かぶ、
シンプルモダンなデザインセンスや、福祉の充実などで、
成熟した社会システムのイメージ。
どこかしら、おしゃれ感がただよっていますしね。

さて、なにはともあれ、
改めて、この人生で、自分が何を大切にしたいのか、
そんなことが見えてくる、心地良さが詰まった本でした。

 

民俗学の名探偵、宗像教授の活躍について。『宗像教授シリーズ』。

このたび、星野 之宣(ほしの ゆきのぶ)による『宗像教授シリーズ』を紹介したい。

 

日本各地で起こる、摩訶不思議で、怪奇な事件の数々。

名探偵ポワロよろしく、事件現場に必ず居合わせるのが、

大東文化大学民俗学教授、宗像伝奇(むなかた ただくす)である。

 

まず、彼の風貌に注目したい。

そのいでたちはポワロさながらだ。

ムッシュ・ポワロは小柄で有名だが、

宗像教授はガタイから見ておそらく大柄。

それを除けば、口ひげに、ステッキ、ホンブルグハット、

そして、ベストにロングコートというスタイルは、

まさにポワロを意識してのことだろう。

難問解決の立役者は、やはりこだわりが強いところも

共通している。

さて、この宗像教授が活躍する『宗像教授シリーズ』は、

主に、『宗像教授伝奇考』(むなかたきょうじゅでんきこう)と

その続編の『宗像教授異考録』(むなかたきょうじゅいこうろく)から

構成される。

 

このシリーズでは、 日本や世界各地の民話や伝承を手がかりに、

宗像教授が、その地に起こる事件を解決したり、謎を探ってゆく。

その事件簿であるが、各話がそれぞれ完結していることが多い。

そのため、どの巻から読んでも、楽しめる。

 

例えば、『宗像教授伝奇考』(第2集)に収録されている

第7話「両面宿儺(りょうめんすくな)」。

 

奇妙な道祖神があると聞き、岐阜県高山市郊外の村を、

宗像教授が訪れる。

 

同じ頃、その村で、営林署の仕事で山に入った男性が、

人の横顔みたいな模様が入ったクモに咬まれる。

 

宗像教授が地元の人に案内された山間で見たのは、

両面宿儺(りょうめんすくな)が彫られた石像だった。

 

日本書紀ではただの”宿儺(すくな)”だが

双頭双身(そうとうそうしん)のため

両面宿儺(りょうめんすくな)と呼ばれる

左右二本ずつの腕で剣と弓矢を使い

暴虐ぶりが朝廷に聞こえた

時の天皇仁徳は

難波根子武振熊(なにわのねこたけふるくま)という

武人を遣わして

これを攻めさせ

ついに殺したという」(宗像教授)

 

そして、宗像教授一行が石像を見た直後に、

突如!そばにあった土砂が急に崩れ落ち、

地下に続くスクナ洞を発見する。

そこは辺り一面、積み重なった古代人の骨があった。

そのなかに、なぜか、ヒンズー教の火の神「アグニ」の像が

佇んでいる。

 

ヒンズー教バラモン教ヒッタイト系などの

金属器文化を持つ人々の日本への渡来、

スクナグモ、土蜘蛛(つちぐも)との関係、、、。

宗像教授の説は、刺激的で探求心をそそる。

 

続いては、『宗像教授異考録』(第2集)第2話、

「割られた鏡」を紹介しよう。

 

魏の銅鏡が、奈良県箸墓古墳から発見された。

邪馬台国卑弥呼へ送られたと考えられる銅鏡の発見は、

畿内説を後押しするものだった。

 

これにより、邪馬台国の場所をめぐる、長きにわたる

九州説、畿内説の論争に決着はつくのだろうか?

 

そんな時、宗像教授のもとに見知らぬ男から、

一本の怪しげな電話が入る。

その男の希望で、奈良の箸墓古墳で待ち合わせをすることにしたが、

いざ、そこへ着いてみると、

電話の男が、突然転げ落ちてきて!息を引きとってしまう。

 

息も絶え絶えに、男が発した最後の言葉が「阿蘇、山門村」。

それを聞いた宗像教授は、村を訪れる。

 

しかし、そこには、なぜか箸墓古墳で銅鏡を発見したという

大学教授がすでに到着しており、何かを探していた。

 

村人たちのよそよそしい態度。村での古墳の発見。

 

はたして、邪馬台国は本当はどこにあったのか。

 

宗像教授シリーズを読むたびに、

各地の民話や言い伝え、さらには歴史への興味が

大きくなってくる。

 

その土地や場所の自然環境、風土、慣習、暮らし、

言い伝えには、もちろん密接なつながりがある。

風習や行事から見えてくる、人々の信仰のありか。

 

ある土地や場所を訪れたときに、感じられることのある

気配とか、エネルギー的なものは、

人々の意識と自然が作用し、産み出されるのだと、つくづく思う。

 

そんなことを考えていて、ふと思い出してしまうのは、

以前、旅をした沖永良部島での体験だ。

 

あれは11月だった。

その日のキャンプ地として予定していた公園に着いた。

もう日もすっかり落ちて、あたり一面の暗闇だった。

車から降り、テントを張ろうとしたとき、

その場の異様な空気にたじろぎ、テントを張るのをやめた。

 

結局、車のなかで眠った。

翌朝、目覚めると、目に飛び込んできたのは、

すばらしく晴れ渡った空のもと、

石灰岩の岸壁のなかにできた風葬跡だった。

 

あの夜に感じた、強力ななにか得体の知れない気配は、

いったいなんだったのかは、わからない。

けれども、不思議な体験として、いまでも

島の旅のハイライトとなっている。

この『宗像教授シリーズ』では、

かつて、どこかで耳にしたことがある、

もしくは、時間にすっぽりと埋もれた伝承が、

星野之宣の巧みな筆致とストーリーによって、

いきいきと現代に描き出されている。

 

宗像教授の行動範囲というか、出没範囲は世界に及ぶ。

名探偵ポワロのパートナー、ヘイスティングス大尉のように、

宗像教授とともに、伝承が息づくさまざまな土地を

一緒に訪ね歩きたいものである。

 

星野之宣の他の作品も、実におもしろい。

ヤマタイカ』、『星を継ぐもの』などの

感想も、今後綴っていく予定です。



『宗像教授シリーズ』詳細は、下記のウィキペディアを参照してほしい。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E5%83%8F%E6%95%99%E6%8E%88%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA

ザワザワが続く、『わたしを離さないで』。

昨年2017年のノーベル文学賞カズオ・イシグロが選ばれた。

読むべくして、このタイミングで、イシグロ作品を読んでみた。

 

いま読まないで、いつ読む?と手に取ったわけである。

ずっと気になりつつ、手を出さなかった作家だったからだ。

そして今回、後押しとなったことも、あと2点ほどある。

 

まずは、新聞各紙に掲載された選考委員会のイシグロへの評価の抜粋。

「私たちが世界とつながっているという幻想に隠されている闇を

明らかにした」というコメント。

え?? どういうこと?

と、いまいちピンとこなかったこと。

 

そして、『わたしを離さないで』。

そう、周りにタイトルを言うと、たいてい読んでいなくても

「ああ、臓器提供の話でしょ?」反応が返ってくる。

 

これから読もうとしている本を、読んでいない人に

一言で片付けられたくない、と勝手にムクムクした気持ちになる。

 

ま、とにかく、なんだかんだ言っても、

ノーベル文学賞の受賞がきっかけで、

カズオ・イシグロの世界に足を踏み入れることになる。

 

 

『わたしを離さないで』。

この本は、介護人キャシーの視点で語られてゆく物語。

子ども時代を過ごした「ヘールシャム」でのできごと。

そして、現在の介護人としての生活について。

たんたんと、抑えられた筆づかいで綴られていく。

 

冒頭から、さまざまな疑問が沸いてくる。

散りばめられた謎に誘われるまま、答えを探し求め、

どんどん目は先へ先へと急ぐ。

久しぶりの小説だったが、心はやる読書体験を楽しんだ。

 

「ヘールシャム」とは、いったい何なのか?

「マダム」とはいったい何者なのか?

なぜ、「マダム」は生徒の優秀な作品を持っていくのか?

なぜ「ヘールシャム」は特別なのか?

提供者と介護人の役割は、いつどこで決まるのか?

・・・

 

仕掛けられた多くの謎を紐解いてゆく快さ。

そしていまだ残された謎。

 

残酷さや壮絶な表現や記述があるわけでもない。

語りも抑制が効いている。

そのためか、起きていた様々なことの奇妙さが

際立ち、緊張感が漂い続ける。

 

そう。「静かに奇妙な世界」なのだ。

 

読み進めながらも、また読み終わってからも

とりとめのない浮遊感のなかにいる。

再び、読み返してみよう、そう思った。

 

そして、さらに、他のイシグロ作品にも

はまりたくなった。